2012年8月9日木曜日

脱原発問題は、経済と道徳の問題

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」

二宮尊徳が残したこの言葉を、今一度よく考えてみる必要があるのではないだろうか。


毎週金曜日、脱原発を訴える国民が集まったデモが国会議事堂前で行われている。

去年の3.11に発生した地震と津波による福島第一原発の事故は、それまで多くの国民が深く知ることがなかった原子力村の利権構造や誰も責任をとらない無責任体質、そして原発そのものの大きなリスクを、白日の下にさらすことになった。

僕自身、原発は何となく嫌だなーとは思っていたが、現実的に生活に支障がないし、エネルギーは必要なわけだから、特に気にしたことはなかった。
意識して反原発運動を行ったこともないし、多くの国民が同じような感覚だったと思う。

しかし、あの事故であからさまになった現実を見て、多くの国民は知ってしまった。
原発は、いったん事故が起こってしまうと、あまりにも社会的影響が大きいものだということを。


さて、日本のエネルギー戦略をどうするかという議論の中で、原発の依存度をどれくらいの比率にするのかという議論が行われている。

全国各地で公聴会が開催されているのだが、今のようにインターネットやSNSが普及した世の中で、あのような進め方しかしない政府に、まともに国民に意見を取り入れようという気があるとはとても思えない。
まあ、最初から結論ありきなんだろう。

で、事故が起こってから様々なTV番組や雑誌・書籍で脱原発について賛成反対の意見がでているわけですが、いずれの意見もかみ合っておらず、平行線という感じが否めない。

脱原発派は、安全性が担保できない、事故による地域的社会の破壊のリスク、放射能の影響による健康被害が怖いという理由が多い。

一方で、原発推進派は、原発はコストが安い、新しい技術を用いた原発は安全性が高い、原発を稼働させないと供給量をまかなえない といった理由をよく耳にする。

何だかなーー。
お互いにまったく主張が噛み合ないんだよな。


ちなみに僕は脱原発派だ。
理由は大きく3つある。


①原発推進・管理者を信用できない

これは言うまでもなく、原子力ムラの利権構造に支えられた無責任体質が抜本的に変わらない限り、原発のようなリスクの高い施設の運用管理をとても任せられない。

電力会社が発送電を分離し、事故の記録を全て情報公開し、新しい安全基準に基づいた運用・管理がなされていることを透明度高く見えるようにならなければ、国民は信用しないだろう。


②使用済み核燃料をこれ以上増やせない

まさか、使用済み核燃料を単なるプールに沈めているだけだったなんて。
ほとんどの国民はそんなこと知らなかったはずだ。

ましてや、その使用済み核燃料は水で冷やせなくなると融解し放射性物質が拡散してしまうという事実も。
そんな危なっかしいものが、各原発の施設の中にむき出しのまま水に沈んでいる。
このまま原発を稼働し続けると、あと十数年で使用済み燃料を保管するプールはいっぱいになるという。

こんなアホな話があるだろうか。
しかも、使用済み核燃料の再処理施設(青森の六ヶ所村)は稼働の見込みが経っていない。

核のゴミの処理問題が全然解決していないのに、原発を再稼働してそのゴミをまだ増やそうとする神経はまったく理解できない。


③感情論ではなく道徳論としては脱原発が正しい

原発を推進したほうが、現時点においては経済的なのはよくわかっている。
自然エネルギーもすぐには代替できないし、既存設備の償却負担や火力発電の原料コストなど、脱原発すると日本全体としては不経済なのは明白だ。

しかしだ。

道徳的にはどうなのだ?
怖いとか嫌だとかいう感情論ではなく、道徳論としてはどうだろうか?
道徳論として、原発はどうあるべきだろうか??

僕は、道徳論としては原発はあり得ないと思う。


今回の事故で、放射能によって直接的に死亡した人はいないということを聞くが、死人がでなければそれでいいのだろうか?

事故後、逃げたけれど結果として被爆をした人、事故処理のために危険を冒して事故現場で対応している人、今すでに存在してしまっている使用済み核燃料を処理しなければならない未来の子孫、この人たちを目の前にして、同じことが言えるだろうか。

今後、事故の処理は誰かがやらなければならないし、使用済み核燃料もまだ存在もしていない未来の子供たちにその処理の責任も押し付けることになる。

それって、道徳的にどうなのだ??

自分や自分の家族が危険に会わなければそれでいいのだろうか?
もし、自分の子孫が原発の現場で危険な対応をしなければならないとなった時、それでも良いと言えるのか?

そんなのは、自分たちさえ良ければいいという無責任な最低な考えだと僕は思う。

それに、現時点で原発を止めると決定したとしても、これまで産み出してきた核のゴミはその処理と行き場を国民的議論によって決めなければならない。
これは消費税や沖縄の基地問題以上に結論の見えない厄介な問題なのだ。

そして、その問題は未来の子供たちにも引き継がれる問題でもある。


だから、脱原発は道徳の問題なのだ。



昔、どこの小学校にも銅像があった二宮尊徳さんは、

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」

という名言を残している。

つまり、原発推進派の今の経済優先の推進理由では犯罪であり、脱原発派も経済的に成り立つ裏付けを示せない限り、単なる寝言だということだ。

今、僕たちに課せられているのは、道徳的に正しい脱原発を、いかに経済的に実現するかということを具体的かつ現実的に進めることではないだろうか。